チーム守中コラム〜道徳〜モラルジレンマ

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 一昨年度より中学校で、「特別の教科」となった道徳。道徳の授業は、いろいろな資料に触れ、考えを巡らせ、様々な価値観に触れることができる大切な時間です。人は、それぞれの置かれた場所で、それぞれが感じたことを土台に生活しています。ですから、人の考え方は様々で、様々な考えを知ること、あるいは自分の考えを整理し、深く考えることが大切になります。

 道徳で時折取り上げられるものに、モラルジレンマというものがあります。モラルジレンマとは、ある究極の二択を迫られた時、そもそもその二つの選択肢はどちらか一方を選んだり一方を捨てたりすることができないものなので、どちらかを選ぶということがそもそも間違っているというシチュエーションのもとで心に起こる葛藤を指します。少し難しいですが、例を挙げて説明します。

(例1)ハインツのジレンマという有名な話を紹介します。ヨーロッパで一人の婦人が大変重い病気のために死にかけていました。その病気は特殊な病気でしたが、彼女が助かるかもしれない薬を町内の薬屋が最近発見しました。その薬の製造費は高かったのですが、薬屋はその薬を製造するのに要した費用の10倍の値段とつけていました。薬屋は依頼した製造者に200ドル払い、わずか一服分の薬に2000ドルの値段をつけたのです。病気の婦人の夫であるハインツはあらゆる知人にお金を借りに行きましたが、薬の値の半分の1000ドルしかお金を集めることができませんでした。彼は薬屋に妻が死にかけていることを話し、薬をもっと安くしてくれるか、でなければ後払いにしてくれるよう頼みました。しかし薬屋は「だめだ、私がその薬を発見したんだし、それで金儲けをするつもりだからね」と言うのです。ハインツは思いつめ、妻のために薬を盗みに薬局に押し入りました。

(例2)A男は清掃の時間、真面目に清掃をしていました。ところがB男は遊んでばかり。A男が何度注意したり丁寧に話してもB男は何も聞かず遊んでいました。A男は「ちゃんとやれよ」と言ってB男が遊んでいたほうきを強く取り上げたところ、その勢いでB男が転倒し、怪我をしてしまいました。

 さて、この例1、2では、何が正しくて、何が悪いのでしょうか。それを考えていくのがモラルジレンマの道徳です。モラルジレンマは、道徳には適さないと唱える学者の方もいらっしゃいますが、モラルジレンマの狙いは、多様な価値観に触れることなのです。価値観というのは、その人その人の生き方でもあります。いろいろな経験を自分の価値観に結び付けることが大切です。生徒の皆さんには、是非、価値観や生き方に結び付くような経験や出会いをしてほしいと思います。

チーム守中コラム〜ばあちゃんの生還

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 このコラムで祖母の話を幾つか書きましたが、今回もそのばあちゃんに関する話です。
しかしながら、この話を聞いたのは、ばあちゃんの娘、私の母からです。私は、よくおしゃべりだと言われることがありますが、私の母は、私の50倍は話します。足腰が悪い上に、脳梗塞で右足が動きませんが、今でも全盛期の古舘伊知郎さんをしのぐおしゃべりばあさんです。 

 母が若い娘の頃、夜中に便所の近くで大きな音がしたそうです。兄妹で駆け付けると、ばあちゃんが倒れていたそうです。必死に兄妹で「母ちゃん〜」と叫んでいたところ、しばらくすると、パッと目を覚ましたそうです。

 ばあちゃんは、倒れていたときに夢のようなものを見ていたそうです。周りに一杯綺麗な花が咲いている川沿いを、ゆったりと歩いている自分がいて、前方に橋が見えていて、その橋を、昔お世話になった人たちが渡っているのが見えたそうです。なぜか早く追いついて自分も橋を渡らないといけないと思い、急ぎ足になったその瞬間に、「母ちゃん〜」と後ろから声がして、何だろうと振り向いたら目が覚めて、子どもたちが目の前にいたそうです。ばあちゃんは、私が生まれるずっと前に、九死に一生を得て、生還していたのです。

 にわかに信じがたい話ですが、よく、「三途の川」と言うからなあと、話を聞いたときに私は納得してしまいました。子どもの頃に、当人のばあちゃんにもこの話を確かめたと思いますが、この話のインパクトが大きくて、ばあちゃんからのコメントの記憶が確かではありません。今度実家に行ったときに母にもう一度聞いてみようかと思いますが、最近の母は、話を盛るのが得意になってきているので、この話に閻魔大王とか、神様が登場するのではないかと想像してしまいます。 

 私は小学生の頃、本当におばあちゃん子でした。ばあちゃんの生還は、私にとって本当に大きな出来事なのです。「家族」という言葉を聞くと、私は、両親、兄、弟、妻、娘たちと同時に、ばあちゃんや多くの親戚の人たちの顔を思い出します。そして、みんなは心の中で笑ってくれています。今の中学生にも、それぞれに、「家族」があります。彼らに、「家族」について、しっとりと思いを巡らせる時間があればいいなぁと、「冬の家守詩」のプリントを用意しながら思いました。

 「家族」、「絆」・・・人が頑張ることのできる土台のような感じがします。

チーム守中コラム〜技術〜紙

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 私たちの身のまわりの紙や布について考えてみました。折り紙やハンカチなどからも分かるように、紙や布は実に簡単に折れますが、折った跡は折り目となって残ります。他の素材、例えばプラスチックなどでは、元に戻ろうとする力が強く働くので、こうはいきません。当然、折り目はつかないし、無理に折ろうとすると、ポキッと割れてしまいます。
では、なぜ紙や布は折り目かつくのでしょうか。

 紙は、たくさんの繊維か繋がり合ってできていますが、折ると、そのときの力によって、繊維は変形し、つながりがこわされます。その後、一部の繊維は大気中の水分を吸収して、再びつながります。変形し、ゆがんだままの状態で繊維同士が結び付くことによって、折り目が残るのです。この性質を利用して、紙を折って保管したり、形を作ったりすることができます。ただし、一度折り目が付いたところは、変形してしまっているので元には戻りません。一方、同じように繊維でできている布は、折り目が付いてもアイロン等をすれば元に戻ります。布は繊維のゆがみだけで折り目が付いているので、アイロン等で再び整えてあげると元に戻るのです。

 このように、身近なものの性質を科学的に知ることはとても楽しいです。また、身近なものの素材等の発展の裏には、大学等での基礎研究の成果が隠れています。多くの研究者が基礎研究に従事しています。その方たちの努力が、今の人類の進歩を支えているのです。感謝して生活したいものです。

チーム守中コラム〜先人から思うこと

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 今年も数々のドラマ、感動が生まれた箱根駅伝。解説を担当していたのは、日本陸上連盟マラソン強化・戦略プロジェクトリーダーである瀬古利彦さん。軽妙で面白いトークが印象的な瀬古さんですが、我々の年代からすると、日本マラソン界の第一人者という印象が強いです。解説を聞いていて、昔を思い出しながら、ふっと「マラソン」というワードに関して哲学思考に入りました。

 私が「マラソン」と聞いて、思い浮かべる選手は、瀬古利彦選手、宗茂、宗猛兄弟選手、中山竹通選手といった、80年代に活躍した選手の皆さん。当時は、2時間8分台の記録に、日本中が湧いていました。この方々のしのぎを削る戦いは、鮮明に覚えています。瀬古選手のコンパクトな走り、宗兄弟の苦しそうに顔を傾ける走り、中山選手の長身を生かしたダイナミックな走り…当時の先人の努力や功績は、今でも引き継がれていると思います。

 思いを巡らせていると、もう一人のマラソンランナーが浮かんできました。浮かんだ選手は、円谷幸吉選手です。円谷選手は58年前、東京オリンピック開催年1964年、当時毎日マラソンと言われていた、びわ湖毎日マラソンで、2時間18分20秒という記録で2位となり、マラソンのオリンピック日本代表となりました。私がまだ0歳の時でした。そして、彼は見事オリンピックで銅メダルに輝きました。

 私が円谷選手のことを詳しく知るようになったのは、それから15年以上経ってから、彼の生涯を書いた本を読んでからです。円谷選手の実直な性格、周囲の期待を背負った中での腰痛との戦い、急激な環境の変化、結婚を約束していた人との別れ・・・彼は自衛隊体育学校宿舎で自ら命を絶ってしまいます。私は、遺書に書かれた、彼の家族への愛がこもった文章を初めて見た時、涙が止まりませんでした。今でも時折思い出しては泣いてしまいます。そして、いかにスポーツが、人を惹き付け、感動させる偉大なものであっても、このような悲劇は繰り返して欲しくないと強く思います。現代の選手を取り巻く環境は、このような悲しいことに結び付くものではないと信じたいです。

 円谷幸吉という、偉大な先人。彼の死は、日本のスポーツ史に悲しい出来事として記され、彼の悲劇の後に、日本オリンピック委員会や一部競技統括団体において、オリンピック出場選手などのアスリートに対するメンタルサポート、メンタルヘルスケアが実施されるようになったそうです。先人が残した教訓は、絶対に受け継がれなければなりません。

 2回目の東京オリンピックが、一昨年にコロナ禍の中で行われ、多くの感動が世界を包みました。また、最近では、サッカーワールドカップでの日本代表の活躍が、多くの人に勇気を与えました。改めて、我々一人一人が「スポーツとは?」という大きなテーマで、哲学を深め、先人を思うことも大切だと思います。

月曜日の朝

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週明け月曜日の朝、冷たい雨が降っています。久々のお湿りで、乾燥も和らぎそうですが、体にこたえる冷たい雨です。健康管理に留意したいものです。

チーム守中コラム〜経済について

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 現代社会は、様々な経済が絡み合っている高度経済といっていいと思います。中学校では、経済や法、暮らしに関しては、3年生で「公民」として学習します。経済に関して思考を巡らせていると、このコロナ禍の中で味わった嫌な思い出がよぎりました。

 物流の流れは、市場では、「需要と供給」のバランスで物の価値が決まり、人々の暮らしに行き渡っています。しかしながら、突然、需要が高まった「マスク不足」や、「トイレットペーパーが品薄になるらしい」という嘘の情報により、そのバランスが崩れると、突如として需要の量が増え、供給が追いつかなくなってしまいます。人々が欲している速度に物流の流れも追いつかなくなってしまいます。法外な値段で取引されるなどの問題が出て、政府が対応する事態となりました。物の動き、物流には、生産者、消費者、それを繋ぐ流通業界と、バランスが保たれて経済は安定するのです。

 ひたすらマスクやトイレットペーパーを売っているお店を探していた、あの嫌な思い出。経済のバランスを保つには、一人一人の気持ちの大切なんだなぁと哲学しながら、もうあんな思いなしたくないなぁとため息をついてしまいました。

チーム守中コラム〜金曜日

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 今日は金曜日。昔、「花の金曜日、花金」という言葉が、サラリーマンの間で交わされていました。仕事を頑張り、週末休める喜びを含んだ、金曜日の仕事終わりに交わすこの言葉、英語では、「TGIF = Thank God It`s Friday」といいます。仕事や学校の最終日の金曜日を迎えたことを感謝する表現です。

 私は、「節目」という考え方が好きです。節目は人に振り返りをさせ、新たな目標を立てさせる大切なものであると思っています。「金曜日」という日も、短いスパンではありますが、節目と言えると思います。一週間の仕事や学校生活、あるいは家庭生活や友達とのふれあい等を振り返り、自分の糧にしていくいいきっかけになると思います。よかったことは喜び、上手くいかなかったことは次回への戒めとして反省し正す・・・ホッとするのと同時に、落ち着いて振り返る時間を自分に与えることは、とてもいいことだなぁと思います。

チーム守中コラム〜フェアプレー

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 1月11日、今日は何の日かなぁと考えていると、あ、鏡開きか!と思い出しましたが、他にないかと調べてみると、「塩の日」というのがありました。
 
 1569年に、武田信玄と戦をしていた上杉謙信が、海に面していない武田側の民が、今川氏・北条氏によって塩を絶たれていることを知り、この日に、塩を送ったとされていることから「塩の日」となったとのこと。また、この逸話から、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたとのことです。

 この「敵に塩を送る」的な考えは、「これはこれ、あれはあれ」という、感情を切り離した人道的な考えだなぁと調べていて思いました。ふっと、哲学的思考になって、思考は「フェアプレー」というワードにぶつかりました。戦にフェアプレーなど無いのかも、と思いながら、次に浮かんだのは、柔道の山下泰裕さんのオリンピック金メダルです。

 1984年ロサンゼルスオリンピック柔道無差別級の決勝戦は、日本の山下泰裕選手とエジプトのモハメド・ラシュワン選手の対戦でした。2回戦で右足を負傷した山下選手に対し、相手のラシュワン選手は右足を攻めずに戦ったという美談が有名です。山下選手は崩れたラシュワン選手を寝技で押さえ込み、見事一本勝ちを収め、金メダルを獲得しました。この試合では、「フェアプレー」という言葉が多用され、相手のラシュワン選手も日本で有名になりました。

 しかし、本当は少し違っていたようで、山下選手は後にこう話しています。「怪我をしている右足をねらわなかったのがファインプレーなのではなく、正々堂々と正面から戦いを挑んできたことがファインプレーであった。」と。

 ラシュワン選手には、怪我を負った山下選手の体力消耗を待って、動揺しているところに技を掛けるようにと、コーチからの指示が出ていたとのこと。それに背き、いきなり正面から技を掛けていったラシュワン選手。その姿勢こそが「ファインプレー」であったとのことでした。

 随分前にコラムに書いた、この16年後のシドニーオリンピックの柔道競技、篠原選手の決勝戦後のインタビューもそうでしたが、人並み外れた真剣勝負には、さまざまなエピソードがたくさんあり、勉強になります。

チーム守中コラム〜奇跡

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 小学生の頃のある日、私は兄、弟がいる中、なぜか私一人だけ連れられ、祖母の用事で上野に祖母と二人で行くことになりました。祖母は足が悪かったので、家にタクシーを呼んで柏駅まで行き、常磐線で上野に向かいました。その時のことはほとんど覚えていないのですが、用事を済ませて柏駅から家に向かうタクシーでの出来事に、小学生の私は「奇跡」を感じたのです。

 当時、小学生の間では、文房具屋さんやおもちゃ屋さんで売っている、「探偵手帳」なるものが流行っていました。水に濡らすと溶けてしまう紙や、あぶりだしなど、不思議な機能が備わった手帳です。私は上野に行くということで、おめかししてその手帳をポケットに入れて出掛けました。帰りのタクシーで、その手帳がないことに気付きました。「あ、ない!」と半泣きで騒ぐ私に、祖母から、「また買ってあげるから」となだめられていました。それを聞いていた運転手さんが、「坊や、どうしたんだい?」と話し掛けてきました。手帳がなくなったことを話すと、次の瞬間、「坊や、これかい?」と運転手さんが手帳を見せてくれたのです。そうです、私は行きのタクシーの中で手帳を落としていて、帰りにたまたま同じタクシーに乗ったのでした。柏駅に何十台も並んでいたタクシーが、行きのタクシーと同じという偶然と、「坊や、これかい?」と小粋に見せてくれた運転手さんの格好良さが強く印象に残っています。

 今になって、よくよく考えてみると、行きのタクシーで落として、帰りのタクシーに乗るまで落としたことに気付かない私の天然さが際立つエピソードだなあと思いつつも、落としたのも気付いたのもタクシーの中、しかも同じタクシー、という奇跡に感動してしまったりします。運転手さんのことを思い出すと、シブくて優しい高倉健さんに似ているかもと、思ったりするのは、思い出を美しくしたいという私の気持ちからかも知れません。思い出って、いいですよね。

チーム守中コラム〜初恋

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 3年生の国語の授業で扱っている、島崎藤村の「初恋」。この詩は、4つの連で構成されています。それぞれが起承転結になっていて、若者の恋心を巧みに表した詩と言えます。この詩は、誰しもが遠き昔に味わった恋心を思い出させる、胸がキュンとなる作品で、多くの人から親しまれています。

〜白い手の彼女から林檎をもらい、恋心が芽生える〜二人が足繁く通った末にできた細い道〜 とても淡い心が描写されていて、気持ちがタイムスリップしてしまいそうです。

 初恋というのは、絶対に忘れないもの。いわば、自分自身の根底にあるもの、かも知れません。この詩を読んで、胸がキュンとなる人は、小さい頃、人形やお絵かきで遊んだ子、小学校時代のあの優しくて笑顔が素敵な子、中学校の頃の隣の席の子、などと、初恋相手を頭に思い浮かべていると思います。

 「初恋」と聞いて私が思い出してしまうのが、村下孝蔵さんの曲、「初恋」。特に2番の、「〜夕映えは あんず色 帰り道一人 口笛吹いて〜」が少年時代の私の強がりを表現しているかのようで、共感します。

 国語の授業ですが、生徒には、淡い気持ちを存分に味わってもらえたらと思います。心揺さぶられた人は、それだけ心が広く、人に優しくなれると思います。

新校舎完成間近

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間もなく新校舎が完成します。工事関係の資材も撤去され、見通しもよくなりました。

水曜日の朝

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今朝もいいお天気です。風も収まり、朝日が暖かい朝です。今週は比較的暖かい日が多いとのことですが、記録的に関東地方は雨が降っておらず、乾燥が心配なところです。火の元、喉、肌の乾燥には十分注意が必要です。

チーム守中コラム〜サイクル

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 校舎増築工事も完了しつつあり、西門付近も広々としてきました。昔から植えられているハナミズキの枝の先端を見ると、小さなつぼみが。春に素敵な花を咲かせて校内を彩ってくれているハナミズキが、その準備をしてくれているんだなぁと、哲学にふけってしまいました。

 「今年の秋はあっという間に過ぎ去ってしまった」とか、「季節が過ぎるのは早い」、「一年、あっという間だったなぁ」などと、時の流れに関する感想をよく聞きます。人は、細胞の代謝スピードが、加齢によって緩やかになる分、絶対的な速さで過ぎている「時」の速さを、加齢とともに早く感じてしまいます。

 社会の節目、新年や新年度は、人の社会生活における大きな節目であり、生活サイクルの起点でもあります。昨今、一年が早く感じてしまうのは、コロナ禍での閉塞感、不安感も原因の一つなのかもしれません。そのような状況を、人は冷静に受け止め、新年や新年度の起点に、自己の年間の生活サイクル、行動サイクルを考えることが大切であると思います。

 ハナミズキに関わらず、多くの植物のサイクルは、外界からの刺激を感知し、内部の生成物等に変化が生まれ、対応する機能をもっているためにできあがります。今の寒さを感知し、日に日に長くなる日照時間を確認して、寒さの次は必ず暖かくなる、春が近いんだ、とつぼみを膨らませているのです。

 人は、植物ほどは刺激に対して順応ではありませんが、「今」の状態をよく観察し、そこから感じ取れるものに対して行動していくことは大切であると思います。寒い冬におけるコロナ禍の中でも、希望の光やわくわくする未来に思いを馳せることができる、何かを見付けることができると思います。それができるためには、落ち着いて、広い視野をもって生活しなければいけないなぁと哲学したりしました。

チーム守中コラム〜志

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 今回は、あの有名な坂本竜馬の言葉を紹介します。坂本竜馬と言えば、薩長同盟の成立に協力するなど、江戸幕府の倒幕および明治維新に関与した歴史上の人物。よく再放送される、ドラマの 「仁−JIN−」にも出ていました。坂本竜馬は数々の名言を残していますが、その中の一つを紹介します。

何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり

 「志」とは、心の中で決めた目的や目標のこと。我々は、普段の生活で、ついつい自分の目標や決意を忘れてしまいます。そんな時、このような言葉に出会うと、「よし、頑張ろう!」と、「志」を思い出して、頑張れることがあります。人間、そうそう強い決意を持ち続けることは難しいから、それでいいのかなぁなんて思ってしまいますが、竜馬の言葉は、そんな柔らかさも吹き飛ばすような強い言葉。「大馬鹿者」にならないよう、志をもって生活したいものです。

チーム守中コラム〜〜英語のことわざ

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 この年末年始、新春に当たり、さまざまな言葉・ことわざを調べてみました。ふっと、英語表現でのことわざもあるなぁと、英語のことわざについて調べてみました。するとたくさんのことわざを見付けることができました。日本のことわざと似ているものもあれば、元々は英語から日本に伝わったことわざ等、さまざまなものがありました。幾つか紹介したいと思います。

○ Failure teaches success.→「失敗は成功のもと」。直訳だと、「失敗は成功を教える」です。

○ It is no use crying over spilt milk.→「覆水盆に返らず」。直訳だと、「こぼれてしまったミルクを見て泣いても無駄である」です。後悔先に立たずも同じような意味です。

○ Where there is a will、 there is a way. →「為せば成る、為さねばならぬ何事も」。直訳すると、「志のあるところには道(方法が)ある」です。

○ Experience must be bought.→日本語で近い意味は、「若いときの苦労は買ってでもせよ」になります。直訳だと、「経験は買わなければならない、買うべきである」です。

 少し調べただけですが、凄く興味が湧き、同時に幾つかの英単語や文法に触れることができました。ことわざなので短文です。中学生の皆さんにも是非幾つか暗記してほしいなと思いました。まずは暗記から始め、いろいろな単語や文法を覚えると、「英語の壁」をクリアし、上達への道が開けるなぁと思いました。

チーム守中コラム〜抱負

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 新年を迎え、今年の抱負は?と自問自答したところ、ん?抱負ってそもそもどういう意味だろうと疑問に思い、調べてみました。

抱負とは、「心の中に抱いている決意や志望」とありました。他の文献では、「心の中に抱いている計画」ともありました。それを踏まえると、「○○したい、○○になるようにしたい」という気持ちだけではなく、強い意志をもって、「○○になるよう、□□をしていく、頑張る」といった、具体性、取組等までを考えるのが抱負ではないかと思います。

 学校としても、「生徒が楽しく自分や集団を伸ばせる学校づくり」だけではなく、そのためには、具体的に何をして、どのようなゴールを目指すのかを考えていくのかが抱負となります。

 守谷中学校は、現在、教職員で次年度に向けた教育計画策定プロジェクトを立ち上げ、各グループ毎に検討を重ねています。「生徒の笑顔が輝く学校」、「生徒が生き生きと生活できる学校」、「安心・安全な学校」を目指すための具体的施策、ゴール像を組織全体で考えて実行していきます。

チーム守中コラム〜七草

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 朝、空を見上げながら、「今日は何の日だろう〜昨日は1月6日で、い・ろ、色の日だったから、今日1月7日は、い・な=稲の日かなぁ?あ、そういえば取手市の稲小学校に勤めていたっけなぁ〜懐かしいなぁ〜」なんて思いにふけっていたら、「あ、七草の日だ!」と思い出しました。
 
 1月7日は、「七草」をいれて炊いたお粥を食べるということで、「七草粥の日」や「七草の日」と言われています。 「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、春の七草」という覚え歌、懐かしく感じるのと同時に、あ〜新春なんだなぁと感慨深くなりました。
 
 お粥を食べるのには、いろいろな正月料理を食べて疲れた胃腸を休めるためでもあるとも言われています。確かに正月ならではの料理を口にしたとは思いますが、例年のように実家に親戚が集まってわいわい食べるということがなかったので、特別なものを食したという感覚はあまりありません。
 
 胃腸に気を遣うのも大切ですが、新型コロナウイルスや、寒さ、乾燥、閉塞感からのストレス等、いろいろなものから身体を大切にしていかなければならないなぁと思います。

チーム守中コラム〜色

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 今日は1月6日。「色の日」だそうです。語呂合わせのお手本のような日です。
 
 色と言えば、昨年の秋に、校庭のモミジの紅葉やイチョウの鮮やかな黄色、落ち葉のさまざまな色を見て、ひどく心動かされたことがありました。自然の色なのに、どうしてこうも鮮やかで美しい色なんだろうと、しばし見とれてしまいました。
 
 先日、TVを観ていると、ストレスを溜めて心が疲れてしまった人は、色を感じず、モノクロに見えてしまうこともあると聞いて、秋口の感動を思い出しました。「色を楽しむ」ことは、心を豊かにすることにつながるかも知れません。身近な色を意識して見たり、心の中でさまざまな色を想像してみるのもいいのかなと思いました。
 
 この時期の青い空、空気も澄んでとても綺麗です。夕方、校舎から見えるオレンジがかった街並み、とても美しい風景です。皆さんも心を休めるために、色に心を向けてみるのもいかがでしょうか。

チーム守中コラム 希望、努力

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 新春の名物である箱根駅伝。母校に出場してもらいたいところですが、残念ながら叶わず、何かしらゆかりのある大学に注目しながら、毎年テレビを観ながら応援しています。
 
 今年の箱根駅伝は、往路から強さを見せた駒澤大学が総合優勝を飾り、駅伝三冠を果たしました。独走の中で、選手はどのような思いで走っていたのか、また、それを追う他の大学、特に往路で出遅れた強豪青山学院の選手の皆さんは、どんな思いでゴールを目指して順位を上げていったか等を想像すると、とても感慨深くなり、哲学にふけってしまいました。
 
「絶対に優勝する!」「順位を○位以内にする」という希望・信念は選手全員がもっているはずです。希望からの「可能性」も、冷静な判断から考えているはずです。大舞台での素晴らしいパフォーマンスは、強固な精神修養から生まれているに違いありません。その修養の裏には、想像を超える努力が隠れていると思います。
 
 昔の、いわゆるスポ根の世界では、「自分を痛めつけろ」、「クタクタになるまで努力しろ」、という、努力=負荷、苦しみ=強い精神力というような図式があったように思います。しかしながら、本当の意味での努力や修養は、そのようなものでは無いと思います。
 
 本当の意味での努力や修養は、自分の信念を貫き、自分を見詰め、希望から可能性を見いだして実行に移すということだと思います。かと言って、優勝できなかった大学の選手やシード権を取れなかった大学の選手がそれをしていなかったという訳ではなく、当日のコンディション等が微妙に働く、それこそ「勝負の神様」ならぬ、人が知ることもできないものがあると思ってしまいます。私は、順位はともかく、懸命に走っている全選手に拍手を送りたいと思います。そして、努力とは、人に強いられて自分を痛めつけるのではなく、自分を客観的に見る力から生まれてくるという考えをさせてくれた箱根駅伝に感謝しています。
 
 やはり、自分を高め、伸ばしていくのは自分自身。希望を明確にし、自ら実行に移すことが大切なのだなぁと哲学の終着点にたどり着きました。少し前に、北海道日本ハムからメジャーリーグに移籍し、活躍しているダルビッシュ選手が語った言葉を思い出します。「いわゆるスポ根というものがないアメリカでも、優秀な選手がたくさんいる、本当に大切なのは、自己管理である」、といった感じの言葉です。
 
「努力」という言葉を、これからもじっくりと考えてみたいと思います。

一月五日の朝

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 気持ちのいい晴れの朝です。学校には部活動を頑張っている生徒の元気な声が響いています。

 今日は何の日かなぁと、語呂合わせで予想してみました。今日は予想しやすく、いちごの日、囲碁の日と、当てることができました。
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