チーム守中コラム〜豆腐

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給食委員会が作成した七夕にちなんだ短冊掲示。「野菜と和解したい,ゴーヤと和解したい」という,思わず笑ってしまうものや,「料理を作れるようになって家族に作りたい」というほっこりしたものもありました。短冊を見ていて,自分の「食」について哲学していたら,ふっと「豆腐」が頭の中に浮かびました。
 
 私は,食べ物については,嫌いなものはなく,何でも食べる派で,高級なものがいいとか,こだわりをもったものはほとんどありませんが,「豆腐」に関しては特別な思いがあります。

 豆腐が私にとって近い存在になったのは,私が高校1年生の時でした。父は千葉市で洋品店を営んでいて,柏から蘇我駅まで毎日通っていました。その父が心機一転,区画整理での店舗の立ち退きを機に,豆腐屋に転職したのです。

 父は松戸の豆腐店に半年ほど弟子入りし,店を開きました。豆腐を作ったり,油揚げを作ったりすることは,相当難しいものだったようで,開業後,しばらくの間は,帰宅した無口な父がその日の品物の出来について一喜一憂しているのを,息子の私は密かに心配していました。

 程なくしてお客さんが増え,経営状態が安定するようになりました。開店した店の水が豆腐づくりに合っていたと父は話していましたが,父の努力の末に完成した豆腐や油揚げ,厚揚げ,がんもどき等は,単に水だけではない,父の魂の産物であると息子の私は思っていました。美味しいと評判になり,遠くから買いに来てきださるお客さんもたくさんいました。そんな父を私は尊敬し,父の豆腐は自慢でした。

 父の作る豆腐は,濃い豆乳で作る,とても豆の風味がするおいしいものでした。豆乳を毎日飲んで成長した,年の離れた弟は,私より一回り体格がよく,豆乳効果の凄さに驚いたものでした。

 豆腐づくりは真冬でも朝早くから水を四六時中使います。また,船と呼んでいる大きな容器に水と豆腐を入れて運ぶ作業もあり,とても重労働です。父の毎日の努力が,私たち3人の息子を大きく成長させてくれました。孫である私の娘が小さい頃,よく父の二の腕を触り,ジジの腕はお父さんよりも凄い!と笑顔で話していました。そんな父も,店をたたみ,隠居して体の自由がきかなくなっています。しかしながら,脳梗塞を発症し,奇跡の帰宅を遂げた母の頭を撫でていた父は,必死に母の介護をしています。

 スーパーで,なるべく安いものを買う私は,豆腐だけは高いものを買って食べていますが,未だに父の作った豆腐を越える豆腐に巡り会ったことはありません。やはり父の豆腐は世界一なんだなぁと,時折哲学にふけったりしています。
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